好奇心のはなし

わたしは好奇心がとても強くて、そして、好奇心が強くてよかったと思っています。

具体的になにって言うと、大学に入ってからの1年間、今までだったら考えもしなかったいろいなところに行ったんですよね、メイドカフェ、マッチョバー、地下アイドルのライブなどです もちろん普通のバーも

なんで考えもしなかったって、単純になんか怖いとか気持ち悪いとか、そんなつまらない理由だったんですよね、行ってから気づいたけど うわ〜〜ここメッチャ楽しいやん〜〜今まで来なかったのもったいねぇ〜〜と思ったんですよ驚くことに全部が全部

それから、今まで、例えばメイドカフェに通う男の人たちとかのこと、あまり良くない目で見ていたんですけど、「いや、あなた方がそうなる気持ちわかる、だってかわいいもん、メイドの女の子…」となって、大げさな言い方するけど、ほんとうにブワッと音を立てるように、わたしの世界が広がったんです 「あ、この人たちのことぜんぜん理解できる」って。

今は多様性社会などと言われているのもあって、わたしも常々痛感していたのですけど、他者に対する「寛容の精神」ってほんとうにほんとうにめちゃくちゃ大事じゃないですか、「あなたが好きなもののことは理解できないけど、あなたがそれを好きなことは理解するよ」というやつ。
でもそんなの頭ではわかっていても簡単に身につくものではなくて、なにか自分の理解できないことに出会ったとき、やっぱり「怖い」「気持ち悪い」という反応のほうが先に出てきてしまう。
どれだけ言葉で聞いてわかっていても、相手側の悲痛な訴えを聞いていても、悲しいことに、わたしはそれほどできた人間でもないので、わからないものはわからない。
それが、実際に「そちら側の人間」になってみることで「ぜんぜん理解できて」しまった。
めちゃめちゃすごいと思ったんです。わたしがあれほど欲しがっていた「寛容の精神」が、ただそのお店の扉をほんの少しの勇気でもって開ける、そんな簡単なことだけで手に入る。「わたしの理解できる部分」つまり「わたしの世界」が音を上げて広がる。

と同時に、その怖い、や気持ち悪い、を盾にして狭い自分の世界に閉じこもることの恐ろしさも知りました。自分は絶対に安全だけど、ただ「知らない」ということだけで相手に「怖い」といった負の感情ををぶつけてしまう。知らないことの恐ろしさ。
それに、世の中に無数にある自分が知らないだけで実は楽しいことを知らないのはもったいないし、自分が理解できないもの、怖いものは少ないほうがより良いんじゃないでしょうか。

まあそんなのは後付けで、はじめから「オタクさんの気持ちを理解するために今日はメイドカフェに行ってみよう…」なんて思ってそこにあったわけではなく、これらはただ単におもしろそう、ちょっと興味ある、という好奇心から始まったことだったんですよね
めちゃくちゃラッキー!と思ってます、こんな経験ができて、わたしに好奇心があって、それを後押ししてくれる友達がいて。


ただ、好奇心だけでは相手を傷つけることもあるというのは、今更ですけど、ちゃんと心に留めておきたい。

今はゲイバーとキャバクラとクラブに行ってみたいと思っております〜

やべえ後半あほみたいな文章になっちゃった
けどここでがんばろうとするとブログ書けなくなるからやめます わたしいい感じにまとめるのがへたくそなんだな〜〜知らんかった